コラム【ダルクローズと散歩】②
【ダルクローズと散歩】 その2《ダルクローズの誕生した頃のウィーン》
中館栄子
ダルクローズは、エミール・ジャック=ダルクローズが正式名ですが、今回はダルクローズと呼んでいきます。そして彼は1865年に誕生します。しかし、誕生した所はスイスではなく、父親の仕事の関係で、一家はオーストリアのウィーンに住んでおりましたので、彼はそのウィーンで誕生しました。今回は彼の誕生とその頃のウィーンについてお話ししていきたいと思います。
オーストリア帝国は、1848年からのフランツ・ヨーゼフ1世の統治は「新絶対主義」と言われ、近代的な経済・行政・教育に対して、市民の政治的な権利は与えられていませんでした。
オーストリア帝国内の分邦であったハンガリーでは、三月革命以前から独立闘争が活発化しており、1848年にブダペストを陥落させましたが、1849年にはブカレストを奪われてしまいます。そこで、ロシア皇帝ニコライ1世にハンガリー反乱鎮圧への支援を求め、ハンガリーを降伏させたのです。その他、幾多の戦いののち、1857年7月、長年懸案となっていたウィーン城壁の撤去を皇帝が決断し、大部分のウィーン市民に受け入れられました。特に労働者は、撤去工事と新たな建設工事によって仕事が増えるという理由からでした。一方、統治する側は、城壁を撤去すれば大量の部隊を周辺から呼び寄せることもできると考えてのウィーン改造計画でした。これらは、フランス皇帝ナポレオン3世がジョルジュ・オスマンとともに断行したパリ改造の前例に多少なりとも影響を受けたものと考えられています。
城壁は長い年月をかけて全て撤去され、リングシュトラーセと呼ばれる環状線が設けられることとなり、その両側にはネオ・ゴシック様式の市庁舎や新古典様式の帝国議会などの建造物が、さらに、兵舎や国防省、警察の中枢がその両端に配置されました。
フランツ・ヨーゼフ1世は音楽には理解を示さず、ヨハン・シュトラウスの音楽による皇帝や市民への励ましなどは評価しませんでした。改造計画の最初の目的はこのように違っていましたが、やがて1865年、リングシュトラーセが開通、ウィーンが近代都市へ生まれ変わってからはウィーンは大きく変わっていきます。どのように変わっていったのか、については後程述べましょう。そこにダルクローズが誕生したというわけです。そして、その近代化の中に彼も合流し、歩み始めたのです。
ダルクローズの周辺を広範囲で見ていきましょう。
彼を育てた母親は人間の諸能力の調和的発達を重視したスイスの教育者ペスタロッチ(1746~1827)が活動の拠点としていた地の出身でありましたし、同じ時代にスイスにはルソー(1712~1778)、音楽的舞台の改革者A.アッピア(1862~1928)、近代建築家コルビュジェ (1907~1965)が、フランスにはドビュッシー(1862~1918)、サティ(1866~1925)が、そしてデュカ(1865~1935)、フィンランドのシベリウス(1865~1957)は何とダルクローズと同じ年に誕生しています。また、スイスのマッターホルン初登頂も1865年でした。正に精神と肉体との調和(心身一元論の復活)を目指していた「近代」を象徴する年にダルクローズは誕生したと言えます。
そして、もう一つ、音楽の都ウィーンに絞り見ていきましょう。
オーストリア・ハンガリー帝国は、1866年にビスマルク率いるプロイセンと戦い、敗北。市民たちは意気消沈していましたが、その気持ちを奮い立たせる歌詞をつけヨハン・シュトラウスは翌年1867年に合唱曲を作曲、そして初演したのです。このように、当時オーストリアにとって音楽は重要な外交手段であり、ヨハン・シュトラウスはパリやアメリカでも絶大な人気を博していました。ウィーンは欧州の中心にあり、ラテン的とドイツ的が混在し、様々な文化が融合している場所であったのです。ワルツはその両方を併せ持つものとして人々に普遍的な意味合いを伝えていましたから、「美しき青きドナウ」の作曲は大変大きな意味を持ったと言えます。
そのようなウィーンで、ダルクローズは1871年6歳でピアノを習い始めます。1912
年に執筆する論文「音と子供」においてピアノのレッスンの在り方を考えるきっかけ
となったと後に回想しています。またヨハン・シュトラウスの指揮によるコンサートを
毎日曜聴きに行くというように、10歳まではウィーンの音楽に溶け込んで過ごして
いたようです。ウィーンで過ごした10年間の彼への影響、特に作曲家ダルクローズ
の多くの作品の作風への影響に興味深いものを感じるのは私だけでしょうか。
1865年から150年の時を経て2015年には、ジュネーヴで〈 J=ダルクローズ生誕150年記念・Institut Jaques-Dalcroze創立100年記念国際大会 〉が開かれましたが、ウィーンではリングシュトラーセ開通150年を記念していろいろな催しが行われ、垂れ幕が目立っておりました。
この1965年を振り返る2015年に、私もジュネ―ヴ、ウィーン、フィンランド、ツェルマットの4か所に行く機会がありまして、「近代」の歴史を肌で感じることができる幸運な年でした。