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コラム【ダルクローズと散歩】③

その3《ダルクローズの家庭環境とペスタロッチ①》中館栄子

前回、ヨハン・シュトラウスによって、ウィーンはヨーロッパの文化の中心になったことをお話しました。

古代ギリシャから近代、そして現代、いずれの時代でも音楽の私達への影響は大きいですね。


さて、今回はダルクローズの小さい頃の家庭環境についてお話したいと思います。

具体的には毎週、彼はお母さんと音楽会に行っていたことぐらいしかわかっていませんが、彼のお母さんはペスタロッチの活動場所のそばに住んでいたということがわかっていますので、ペスタロッチの教育思想に少なからず影響は受けていると考え、ペスタロッチに焦点を当て、3回にわたりお話していこうと思います。


〈ペスタロッチの活動と教育思想 〉

ペスタロッチはスイスのチューリッヒに1746年に次男として生まれますが、牧師であり外科医の父は彼が5歳の時に亡くなり、決して裕福な家庭ではありませんでした。

その彼は牧師を志し、1764年チューリッヒの大学に進学します。


〈ルソーの思想に触れた大学時代〉

そこでペスタロッチは愛国主義的な運動に関与したことで退学となります。

その後、彼はルソーの思想に影響を受け、農民兼農業経営者を目指すことになります。

ここで「近代教育思想の祖」と呼ばれているルソーについて少しお話しておきましょう。

ルソーはフランスを中心に活躍した哲学者、政治哲学者、作曲家で、有名な著書「社会契約論」はフランス革命を思想的に準備したと言われています。

また、彼の教育思想を述べているのが「エミール」で、現代にも読み継がれている教育思想のバイブル的な存在になっています。では、ペスタロッチに戻りましょう。


〈「リーンハルトとゲルトルート」の執筆で民衆教育の必要性を主張〉

彼はアールガウ州ビル村で農業経営をしながら、貧困層や孤児の教育に携わり、子供たちが経済的に自立できるように、と職業的な技術を身に付けさせるために学校を設立します(「ノイホーフの教育実践」と言われています)が、運営に行き詰まり閉鎖、そして1780~1798年の18年間は著作活動に専念し、1780年「隠者の夕暮れ」、1781~1787年「リーンハルトとゲルトルート」を執筆していきます。

「リーンハルトとゲルトルート」は教育小説で、彼は一躍注目を浴びることになります。

その内容は主人公ゲルトルートが、自分や村の子供たちに農業や国語、算数などを教えることで彼らが成長し、農村に革命が起きるというものです。

この小説でペスタロッチは、民衆が貧困から救済するためには教育が必要であることを説き、民衆教育の必要性を掲げ、また、家庭こそが教育の原点であると考え、家庭の中心である母の愛を受けて子供が成長していくという物語としています。

彼の言いたかったことは、まさにこの民衆教育の必要性と家庭こそが教育の原点ということであったのです。


〈シュタンツでの教育活動〉

1789年から、ナポレオンが活躍したフランス革命が勃発しました。

最も大きな影響を受けたスイスのシュタンツ村では大勢の孤児が生まれてしまいました。

ペスタロッチは、当時の文部大臣で彼の理解者だったシュタッパーに孤児院の運営を任され、80人の孤児の世話と教育をすることになります。

しかし、フランス兵が再びシュタンツを襲撃し、孤児院を戦時病院にしたこと、ペスタロッチがそれまで著作などを通して社会改革運動を応援していたことで周囲の反対を受けたこと、などの理由から孤児院も閉鎖に追い込まれてしまいます。

その失意から友人に宛てた手紙である「シュタンツ便り」は、その後重要な教育的な著作とされ、教育実践報告として多く出版されることになります。

80人の孤児とペスタロッチが家族のようになっていく様子が書かれたシュタンツでの教育実践の記録であり、ペスタロッチの思想である人間教育における家庭教育の大切さが述べられています。

また「どんなに貧しく、どんなに良くない子どもの中にも、神より与えられた人間性の力があると信じている」(1799年53歳)という名言が残されています。

ノイホーフ以来、主に著作活動をおこなってきた彼が、再び教育へ関わるきっかけとなったのが、このシュタンツでの教育活動でした。


次回はさらに教育界で活躍するペスタロッチについてお話していきます。




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