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コラム【ダルクローズと散歩】⑥

はじめに

ルソーとフレーベル、ヘルバルトの橋渡しをしたのがペスタロッチであることをこれまでにお話してきましたが、今回から、いよいよペスタロッチの影響を受けた日本人をご紹介していきます。日本の教育界の先駆者の中から、長田新(広島大学名誉教授)、澤柳政太郎(成城小学校創設)、小原國芳(玉川学園創設)の3人を紹介していこうと思いますが、今回は長田新を挙げ、ペスタロッチからどのような影響を受けたのか、ペスタロッチとの接点やペスタロッチの教育論を解明しながら2回に分けて述べていきたいと思います。まず、彼のプロフィールを簡単に記しておきましょう。

長田新プロフィール1887年2月1日1961年4月18日長野県諏訪郡豊平村(現:茅野市)出身。専門は教育思想史。長野県立諏訪中学校、広島高等師範学校卒業から大分県師範での教員生活。1915年京都帝国大学卒業。澤柳政太郎の秘書を経て、澤柳が1917年に創設した成城小学校で実践研究。広島文理科大学広島大学の前身)教授在任中の1945年8月6日広島に投下された原爆被爆。敗戦直後の12月に学長に就任して広島文理大の再建にあたり、その後新制広島大学で1953年の退官まで同大学の教授を務める。1947年昭和22年)には日本教育学会初代会長に就任。また「日本子どもを守る会」を結成、初代会長を務めるなど、戦後の日本の教育再建に貢献した。


パウル・ナトルプからペスタロッチに関心を寄せるようになった経緯

長田は1919年の論文『産業革命と現今の教育問題』の中においては、教育学を「産業革命以降の社会状況との関連においてとらえるべき」としていますが、その後、1921年2月の論文『ペスタロッチの「教育即生活」の意味」』では、「自己活動」「自己創造」が中心原理となっており、すでにペスタロッチがパウル・ナトルプの理論の根底にあると分析しています。しかし、その時点ではまだペスタロッチについてはそれぐらいの関心しかなかったようです。その後、長田は1921年8月より1年間欧米視察に出掛けますが、中でもドイツに長く滞在しパウル・ナトルプ達に会っているのですが、スイスまでは出向いておりません。

ここで初めて、パウル・ナトルプの名前が登場しましたので、彼について少し説明を加えます。

パウル・ナトルプ(1854年1月24日 -1924年8月17日 )は、ドイツの哲学者です。ペスタロッチの教育者としての生涯に対して研究をした思想家で『ペスタロッチ──その生涯と理念』東信堂 (1910)の著書もあります。科学、道徳、芸術の調和的発展を教育の基本とし、意志とイデアの陶治による社会的教育学を説き、教育を社会の側面から捉えた人物です。彼は「人間は、人間的社会によってのみ人間になる」という有名な言葉を残しています。

話を長田に戻しましょう。

1924年2月から2年間に発表した論文では、パウル・ナトルプの哲学の基礎にペスタロッチを確実に位置付けた上でペスタロッチの教育学について述べ、1925年には『ナトルプにおけるペスタロッチの新生』を発表しています。つまり、パウル・ナトルプの哲学は自発性の原理に基礎を置いたペスタロッチの社会的立場を発展させ基礎付けしたものと言えるとし、長田はペスタロッチ研究でパウル・ナトルプを越えたものであると分析し結論付けています。このようにペスタロッチの教育学はパウル・ナトルプの教育学の根底にあると位置付けた長田は、研究を更に深めて、ペスタロッチの「経験」と「理論」の両輪、「直観教育」を学び取っていくのです。

そのような研究の最中、1927年ペスタロッチ没後100年の年の12月、澤柳政太郎が急逝し、慌ただしい中でしたが、長田は次の1928年にはドイツに1年半留学します。そして、今度はスイスにも2回出向き、ペスタロッチ研究所や遺跡を訪れて、ペスタロッチ研究を更に深化させていったのです。


では、次回は長田自身の教育学形成に向けて、ペスタロッチからどのような教育思想の影響を受けたのか、などについて述べていきたいと思います。






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