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コラム【ダルクローズと散歩】⑨

その9《成城学園の創立者、澤柳政太郎へ影響を与えたペスタロッチ④》

―再び官僚としての教育改革の取り組みと民間教育者として願望を具現化―

澤柳政太郎は大学卒業後すぐに官僚の道に入り、その後学校長を歴任していきますが、その間に教育学者の道も同時に歩み始めており、多くの著書を執筆し、その中に体験からの教育、直観教育を提唱したペスタロッチの教育論についても、実際に教育に携わっている先生方へ問い掛けていたことを前回お話しました。

その澤柳はその後、再び官僚の道を歩むこととなります。山県内閣の樺山資紀文相の就任の時に文部省普通学務局長に就任し、明治39(1906)年7月には西園寺内閣の牧野伸顕文相の下で文部次官となり、この2回目の文部官僚時代の約10年間は、中等学校制度改革、第三次小学校令の制定、国定教科書制度の制定、義務教育年限の延長、師範学校制度の改正等に取り組んでいきました。そして、退官前に腸チフスになり、一命を取り留める程の大病とも戦いますが、回復後はまた、精力的に著述活動を続けていきます。体験を伴った教育学を提唱し、日本の教育学史上記念すべき著作となった『実際的教育学』(明治42年)をはじめ、『教師及校長論』など、多くの著書を執筆していきました。 明治42年12月には貴族院議員となり、44年3月には新設の東北帝国大学総長に就任し、さらに大正2年5月には京都帝国大学総長となるのですが、教授の任免権限と運用の在り方をめぐり教授会と対立した「京大澤柳事件」により、大正3年4月には退官することとなりました。

それからは実践的活動に切り替え活躍していきます。

成城中学校校長就任までの経緯ですが、成城学校はもともと陸軍幼年学校と士官学校受験の予備校でありましたが、明治30年から普通の中学校になったのです。然し、受験生が減少し経営破綻に追い込まれていました。その時、澤柳は学校内に小学校の創設を条件に要請を受けたのです。では澤柳の要請に応じようとした理由は、どうだったのでしょう。まず、澤柳自身が初等教育の重要性の認識が高かったこと、そして、当時の初等教育が形式的で、日本の子供達にはそぐわないと感じていたこと、改革のためには、実験校は自由の利く私立が行いやすいこと、学者から降りてくる意見ではなく、現場の教師たちの意見をとり入れてこそ改革の意味があると考えていたこと、などではないでしょうか。そのようにして1917年に新教育の実験校として私立の成城尋常小学校が創設され、澤柳の児童中心主義の教育が始まります。教師同士も平等の権利を持ち活発な実践活動が展開されていきます。ペスタロッチの教育に共感している長田新、小原国芳もこの学校で澤柳を献身的にフォローしていったのです。そして、小学校から手掛けた成城を七年制高等学校、高等女学校、幼椎園を備える一大学園に成長させていったのです。さらに1022年、第一次世界大戦後の欧米教育の視察から帰国した澤柳は、それまで成城小学校で行われていた「自学主義教育」の代わりに、学校全体を一つの共同体として機能させるドルトン・プラン(アメリカのパーカーストが考案したもので、自発性、自主性を重んじるモンテッソーリ教育やデューイの問題解決学習などの長所を取り入れて、自由と協同という考えのもとにクラスの人数が多くとも児童一人一人の能力を伸ばす目的で考案されたシステム)を導入するのですが、批判も多く、その内容を消化できるまでには至らなかったようです。しかし、この視察旅行以降、澤柳は国民間の相互理解と国際協調をめざす太平洋問題調査会、世界連合教育会等にも関わり、日本国際教育協会会長としても力を注いでいきました。

このように、澤柳はペスタロッチをはじめパーカーストやデューイなど、実験や経験を伴った教育論に共感しながら児童中心主義教育を推進していった教育学者であり実践者であったのです。








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