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コラム【ダルクローズと散歩】⑤

その5《ペスタロッチ思想、日本への導入―大正自由教育運動を中心にー③》

中館栄子

さて日本には、いつ頃ペスタロッチ思想が入ってきたのでしょうか。そしてさらに、ぺスタロッチ思想は、私達の日本の教育にどのような影響を与えているのでしょうか。今回は日本の大正自由教育運動を中心にお話していきたいと思います。

《ペスタロッチの「メトーデ」とヘルバルト派の「五段階教授法」》

ペスタロッチが確立した直観主義の教育方法「メトーデ」が日本に入ってきたのは、明治時代です。「メトーデ (Methode)」とは、集団を対象とした学習指導法の開発として評価されていますが、「直観」とは実際にモノを観て教えるという実物主義の考えで、「数・形・語」を教えました。 例えば果実でその数、形体、名称や性質を教えるのです。 基礎陶冶(焼き物を作るための陶土をしっかりと吟味して選別し、それを慎重に焼き物に仕上げていくこと)を重視して、その上で開発主義の問答法で認識を高めていくことを提唱しました。日本では先生が絵などを描いた図表を見せて、子供たちに「これは何ですか?」と尋ね、実物を見せながら答えさせるような授業でした。しかし、この日本での方法は不完全でメトーデが完全に理解され導入されたとは言い難かったのです。そして、ヘルバルト主義の弟子達が確立した五段階教授法という手法が台頭してきました。五段階教授法とは19世紀後半のドイツで、 ヘルバルト派に属する人々によって主張されていきましたその変遷を辿りますと、ヘルバルトは、教授の一般的段階として「 明瞭」「連合」「系統」「方法」の4段階を示しましたが、その後、ヘルバルト派のツィラーTuiskon Ziller(1817―82)は「明瞭」を二つに分け、「分析」「総合」「連合」「系統」「方法」の5段階としたのです。 それを同派のラインWilhelm Rein(1847―1929)は「 予備 」新しい観念の 統覚 に必要な既有の観念の整理、「 提示 」新教材の提示、「 比較 」新旧観念の比較、「 総括 」新旧観念を一つの体系に組織化、「 応用 」体系化された知識の応用の5段階に分けたのです。解かりやすく言いますと、その特徴は授業の最初に教育内容について予告するという「予備」、予定している教育内容の説明や伝達をするという「提示」、これまでに習得した教授内容と比較するという「比較」、その時間内の内容をまとめるという「総括」、教授内容を応用し定着を図る「応用」となります。

この流れに押され、ペスタロッチ思想は徐々に消えていきました。しかし、その後、再びペスタロッチ思想が注目されたのは、大正時代に起きた「大正自由教育運動」です。

《大正自由教育運動》

大正自由教育運動とは、19世紀末期から20世紀初期にかけて欧米で活発化していた新教育運動が、日本にも導入され、1920年代から1930年代前半にかけて興りました。子供の目線で興味や関心事を中心とした自由で創造的な教育を目指そうとしたのが大正自由教育運動あるいは大正児童中心主義運動と言われたもので、大正デモクラシーの追い風も相まって広まっていきました。この子供を中心とした自由な教育を新教育と呼び、新教育の実践校として、現在の成城学園の前になる成城小学校、玉川学園があり、これらの学校の創立者である澤柳政太郎(成城小学校創設)と小原國芳(玉川学園創設)の二人は、ペスタロッチの影響を受けた人物と言われています。そして、これらの運動には、欧米の教育思想を取り入れようとペスタロッチだけではなく、ルソーやフレーベルなどの教育思想も紹介され、注目されました。

ペスタロッチの直観教授は、子供の興味や関心を引き出して、感覚器官を通じて知識を認識させる教授法で、子供を中心にした教育です。大正自由教育運動が目指した新教育とその教育思想はほぼ同じと考えられます。他にも教育界のリーダーたちが、教育主張を繰り広げるなどして運動を盛り上げていきますが、当時の教育体制では、公立学校に広く浸透していくのは困難でした。また、政府の弾圧などもあったため運動にも限界が来てしまい、大正自由教育運動は、大正の変革期に一世を風靡した教育運動と言えますが、多くの芸術家たちも、子供の教育に目を向けていった「芸術教育運動」とも言われているのです。

次回は具体的に《ペスタロッチの影響を受けた日本人》をご紹介していきましょう。そして、その次には《芸術教育運動》に焦点を絞って、興味深いお話をしていきたいと思います。



 
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