検索


コラム【ダルクローズと散歩】⑨
その9《 成城学園の創立者、 澤柳政太郎へ影響を与えたペスタロッチ④》 ―再び官僚としての教育改革の取り組みと民間教育者として願望を具現化― 澤柳政太郎は大学卒業後すぐに官僚の道に入り、その後学校長を歴任していきますが、その間に教育学者の道も同時に歩み始めており、多くの著書を執筆し、その中に体験からの教育、直観教育を提唱したペスタロッチの教育論についても、実際に教育に携わっている先生方へ問い掛けていたことを前回お話しました。 その澤柳はその後、再び官僚の道を歩むこととなります。山県内閣の樺山資紀文相の就任の時に文部省普通学務局長に就任し、明治39(1906)年7月には西園寺内閣の牧野伸顕文相の下で文部次官となり、この2回目の文部官僚時代の約10年間は、中等学校制度改革、第三次小学校令の制定、国定教科書制度の制定、義務教育年限の延長、師範学校制度の改正等に取り組んでいきました。そして、退官前に腸チフスになり、一命を取り留める程の大病とも戦いますが、回復後はまた、精力的に著述活動を続けていきます。体験を伴った教育学を提唱し、日本の教育学史上記念すべき


コラム【ダルクローズと散歩】⑧
その8《 成城学園の創立者、 澤柳政太郎へ影響を与えたペスタロッチ③》 ―官僚、学校長時代の著書の中のペスタロッチ― はじめに 「私は教育界の渡り鳥であった」、これは30余年間教育界で活動を続けた澤柳政太郎自身の言葉です。卒業後は官僚、学校長、大学総長として歴任、その後、自ら小学校を設立して、実験研究を行いながら新教育運動を推進していくのです。今回はその前半「官僚、学校長時代」のことをお話していきましょう。 澤柳政太郎は、幕末の慶応元(1865)年、信州松本で生まれ、神童と餓鬼大将の両面を持ち合わせていた幼年時代だったようです。彼が生まれた1865年と言えば、ダルクローズがウィーンで誕生した年でもあり、そのウィーンでは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が城壁を取り壊し、リング大通りが開通し近代の幕開けの年として注目されています。日本でも、ヨーロッパやアメリカの近代化の影響を受け、澤柳も日本における近代化の先駆者の一人となり、明治21年7月、24歳で帝国大学文科大学哲学科を卒業し、近代教育制度の確立過程を、身をもって体験していきます。...


コラム【ダルクローズと散歩】⑦
その7《日本の教育思想史研究者長田新へ影響を与えたペスタロッチ②》 ―長田自身の教育学形成に向けて、ペスタロッチからの影響― 長田は、当初、それほどペスタロッチに関心を寄せてはおりませんでしたが、小学教育に強く関心を寄せるようになり、教育学を実践学と捉え始めた時に、ペスタロッチへの関心は強くなっていきました。 そして、彼はペスタロッチの教育学の特徴を①感性と理性の統一、経験と哲学の一致を根底にした教育論を展開している、②社会改革、初等教育改革の先駆的教育学である、③理論的側面と実践的側面を 合わせ持つ教育論である、と分析、理解していきました。 さて、ここから、今回の長田自身の教育学形成に向けてのペスタロッチからの影響について述べていきます。 まず、長田は、社会改革、教育改革に関心を寄せていました。その二つを合わせ持つ教育論をペスタロッチから学んでいる、と言えるのではないでしょうか。 長田は1919年の論文『産業革命と現今の教育問題』で、「教育の意義は、一般大衆を対象として資本主義社会に適応させることにある。」と言及し、社会状況を見極めた上での教育


コラム【ダルクローズと散歩】⑥
その6《日本の教育思想史研究者長田新へ影響を与えた ペスタロッチ①》 はじめに ルソーとフレーベル、ヘルバルトの橋渡しをしたのがペスタロッチであることをこれまでにお話してきましたが、今回から、いよいよペスタロッチの影響を受けた日本人をご紹介していきま す。日本の教育界の先駆者の中から、長田新 (広島大学名誉教授)、澤柳政太郎(成城小学校創設)、小原國芳(玉川学園創設)の3人を紹介していこうと思いますが、今回は長田新を挙げ、ペスタロッチからどのような影響を受けたのか、ペスタロッチとの接点やペスタロッチの教育論を解明しながら2回に分けて述べていきたいと思います。まず、彼のプロフィールを簡単に記しておきましょう。 長田新プロフィール 1887年 2月1日 ~ 1961年 4月18日 ) 長野県 諏訪郡 豊平村 (現: 茅野市 )出身。専門は教育思想史。長野県立諏訪中学校、広島高等師範学校卒業から大分県師範での教員生活。1915年京都帝国大学卒業。澤柳政太郎の秘書を経て、澤柳が1917年に創設した成城小学校で実践研究。 広島文理科大学 ( 広島大学 の前


コラム【ダルクローズと散歩】⑤
その5《ペスタロッチ思想、日本への導入―大正自由教育運動を中心にー③》 中館栄子 さて日本には、いつ頃ペスタロッチ思想が入ってきたのでしょうか。そしてさらに、ぺスタロッチ思想は、私達の日本の教育にどのような影響を与えているのでしょうか。今回は日本の大正自由教育運動を中心にお話していきたいと思います。 《ペスタロッチの「メトーデ」とヘルバルト派の「五段階教授法」》 ペスタロッチが確立した 直観主義の 教育方法「メトーデ」が日本に入ってきたのは、明治時代です。「メトーデ (Methode)」とは、集団を対象とした学習指導法の開発として評価されていますが、「直観」とは実際にモノを観て教えるという実物主義の考えで、「数・形・語」を教えました。 例えば果実でその数、形体、名称や性質を教えるのです。 基礎陶冶(焼き物を作るための陶土をしっかりと吟味して選別し、それを慎重に焼き物に仕上げていくこと)を重視して、その上で開発主義の問答法で認識を高めていくことを提唱しました。日本では先生が絵などを描いた図表を見せて、子供たちに「これは何ですか?」と尋ね、実物を見せ


コラム【ダルクローズと散歩】④
その4《ダルクローズの家庭環境とペスタロッチ②》 中館栄子 前回より、ダルクローズののお母さんはペスタロッチの活動場所のそばに住んでいたということがわかっていますので、ペスタロッチの教育思想に少なからず影響は受けていると考え、ペスタロッチに焦点を当て、お話を始めました。今回はその2回目です。 〈イヴェルドン学園での活躍〉 再び教育者として活動することになったペスタロッチは、政府の支援を受けながら、自分の新教授法を発展させ、1800年にブルクドルフ城内に学校を設立し、次の年には著書「ゲルトルート児童教育法」を執筆して、 メトーデの確立、直観教授による方法を 説いています 。その方法とは、 子供の「直観」に認識させる方法で、実際の物や絵画、写真などを観せたり触れさせたりして興味を引き出し、感覚器官を通じて知識を習得させる、 現代においても広く普及している教授方法です。そしてメトーデの目標として、そこには3つの人間の素質である「頭(Head)」「心(Heat)」「手(Hand)」を、調和的に自然的に発達させることが挙げられており、この3つの頭文字をとっ


コラム【ダルクローズと散歩】③
その3《ダルクローズの家庭環境とペスタロッチ①》中館栄子 前回、ヨハン・シュトラウスによって、ウィーンはヨーロッパの文化の中心になったことをお話しました。 古代ギリシャから近代、そして現代、いずれの時代でも音楽の私達への影響は大きいですね。 さて、今回はダルクローズの小さい頃の家庭環境についてお話したいと思います。 具体的には毎週、彼はお母さんと音楽会に行っていたことぐらいしかわかっていませんが、彼のお母さんはペスタロッチの活動場所のそばに住んでいたということがわかっていますので、ペスタロッチの教育思想に少なからず影響は受けていると考え、ペスタロッチに焦点を当て、3回にわたりお話していこうと思います。 〈ペスタロッチの活動と教育思想 〉 ペスタロッチはスイスのチューリッヒに1746年に次男として生まれますが、牧師であり外科医の父は彼が5歳の時に亡くなり、決して裕福な家庭ではありませんでした。 その彼は牧師を志し、1764年チューリッヒの大学に進学します。 〈ルソーの思想に触れた大学時代〉 そこでペスタロッチは愛国主義的な運動に関与したことで退学と


コラム【ダルクローズと散歩】②
【ダルクローズと散歩】 その2《ダルクローズの誕生した頃のウィーン》 中館栄子 ダルクローズは、エミール・ジャック=ダルクローズが正式名ですが、今回はダルクローズと呼んでいきます。そして彼は1865年に誕生します。しかし、誕生した所はスイスではなく、父親の仕事の関係で、一家はオーストリアのウィーンに住んでおりましたので、彼はそのウィーンで誕生しました。今回は彼の誕生とその頃のウィーンについてお話ししていきたいと思います。 オーストリア帝国は、1848年からのフランツ・ヨーゼフ1世の統治は「新絶対主義」と言われ、近代的な経済・行政・教育に対して、市民の政治的な権利は与えられていませんでした。 オーストリア帝国内の分邦であったハンガリーでは、三月革命以前から独立闘争が活発化しており、1848年にブダペストを陥落させましたが、1849年にはブカレストを奪われてしまいます。そこで、ロシア皇帝ニコライ1世にハンガリー反乱鎮圧への支援を求め、ハンガリーを降伏させたのです。その他、幾多の戦いののち、1857年7月、長年懸案となっていたウィーン城壁の撤去を皇帝が


コラム【ダルクローズと散歩】
本会代表の中館栄子先生によるコラム【ダルクローズと散歩】の連載が本日よりスタートしました! 皆さまどうぞお楽しみください\(^o^)/ 第一回目はこちら。 ーーーーーーーーーーーー いつもEnsemble EurhythmicsのホームページやFacebookに関心をお寄せ頂き、ありがとうございます。 さて、本日より《ダルクローズと散歩》という題目で、ダルクローズからの学びを、ゆっくりと歩きながら連載させていただくことになりました。 どうぞ宜しくお願いいたします。 私がリトミックの実践を学んできたことで、同時に他にどんなことに関心を寄せてきたのか、私なりに色々な分野からダルクローズ像を立体化して見てきたこと、ダルクローズの文献から彼と対話しながら考えてきたことなどが沢山あります。 それらを形を変えて綴ってゆきたいと思います。 ちなみに、私のダルクローズへの視点には下記の16分野があります。 リトミックの原理・理念に関すること リトミック教育の実践に関すること ダルクローズ及びリトミック史に関すること 音楽心理学に関すること 音楽教育学、音楽教育史





















